nakayubi

書くための座標

柄谷行人『終焉をめぐって』を読み進めている。取り敢えずは160pまで流し読みしてそこからまた再読するつもりでいる。大江健三郎万延元年のフットボール』と村上春樹1973年のピンボール』の相違点についてはおもしろいと思った。まずもってタイトルがパロディのようだという指摘にははっとさせられた。なぜ今まで気がつかなかったのだろうか?
また、三島由紀夫事件=「昭和維新」の再現=ファルスという箇所がある(47p)。もちろんここでのファルスはファルス(farce)であり、ファルス(phallus)ではない。が、三島由紀夫事件をfarceとphallusから考えてみるのもおもしろいかもしれない。ちなみにfarceはラテン語ではfarcireであり、原義は「詰め込む」(笑劇が宗教劇の間に上演されたため)だという。何かを詰め込まれ、膨らんでいく身体。そして自己。それは時空を超越し、自己を無限に拡大する(子宮の中の胎児のように、去勢される前の幼児のように)。

今週の土日はイベントが多く読書も殆どしていないし小説も一切進んでいない。
土曜は山手線一周して池袋でYとYの彼女のAちゃんとYちゃんの四人で少し酒を飲んで日が変わるころに寮に帰ってきて風呂に入ってすぐ寝た。
日曜は昼頃に起きて文フリの打ち上げに焼肉を食べに行って二次会でカラオケに行った。夜に花火をする約束をしていたことをすっかり忘れていたので途中で抜けて寮でTとTKとFとOで花火をした。日が変わるくらいまでゲームをしてそのあとは朝日新聞を読んだ。最近朝日新聞を読むようにしている。今日からリクナビ2017が始まったことだし。

かつて戦前戦中には「熱帯季語」というものがあったらしい。これは日本の勢力範囲が広がるにつれ、高浜虚子が新たに季語に付け加えたものを指す。例えば、「スコール」「赤道」「ドリアン」などである。もちろんこれを全面的に肯定することなどできやしない。が、この「熱帯季語」を基点として宇宙と文学についてを考えることができるかもしれない。
かつての日本人が「熱帯季語」を生み出さなければなかったように、人間の生存領域が自然科学の発展により宇宙に拡張されるにつれ、文学が引き受けなければならないものも必然的に増えていく。われわれは近い未来に月や火星に住む人類が詠むであろう詩歌を想像することができる段階にとうの昔に到達している。
そしてそれは同時に、宇宙という膨大な時空間を文学が取り扱うということについて考えることを新たに必要とする。地球が生成して46億年と言われ、人類が発生したのは何年かわからないけれど、きっと途方も無いほど過去の話だ。文学はそれを視野に入れなければならない。もはや一人の人間を描いてそれで済むという時代は終わってしまった。文学は過去や未来を越えて人類というひとつの種を扱わなければ段階に入った。

宇宙の詩を高らかに詠おう。

佐々木中『夜戦と永遠』を読んで寝る。

吉本隆明「母制論」「対幻想論」(『共同幻想論』)を再読した。よく考えれば演習発表にたいして必要ないので一旦区切ることにする。

日夏耿之介日夏耿之介詩集』がAmazonから届いた。ゴシック・ロマーン体と自ら称した文体は荘厳華麗奢侈であり、すらすらと読むことが難しい。難読な旧字体は呪術の文様のようにも見えさえする。ゆっくり読む。ゆっくり読むことは良いことだと思う。

話は少し逸れるが、浪漫主義と民族という共同体の生成について。例えば、浪漫主義は民話や叙事詩、神話に範をとった。そしてそれはそれを理解できる集団という共同体を逆に投射することとなった。日本においては古典主義とは漢詩文のリバイバルについてのみ扱われるべきであり、逆に言えば平安の王朝文学などを模倣したものは全て浪漫主義である。ここはしっかりと区分されるべきだろう。仏教説話などに範を求めたものについては古典主義の範疇に入れてもいいかもしれない。古代と中世の区分は難しいが、この点については常に頭の隅に置いておかなければならない。民話を童話に改編するプロセスと近代国家成立のプロセス(中央集権化)は似ている。眠いし大した論拠もないから適当に書いてしまった。ただ、例えばだが短歌において新古典派という呼称が通っていることは厳密に考えればズレが生じていないか、と思う。どこまでを「古典」か、と考えると難しいのだが、西欧の古典とはギリシャ・ローマであることを鑑みれば、日本における厳密な古典とは漢詩文であろう。そのような意味で「古典」とは文明が産み出したものであると言えよう。その古典を乗り越えるかのように国風文化が花開いていったのだ。しかしここで、まだ近代における「民族」など存在しないことは重要であるというか当たり前のことだ。浪漫主義が近代国家の成立に寄与したことは常識であるが、その理論でいくと、古典主義はヨーロッパという概念を遡行的に成立させた。
少し論理が飛躍するが、上のような文脈において、俺は美しいものを美しく書こうとする行為が直感的に危険だと感じる。川端康成谷崎潤一郎、そして三島由紀夫などの文体が(もちろん彼らの構成の美を見逃すことが決してできないことは承知である)。この直感をどうにかして論理立てたいと考えていたが虚しい試みだった。上に記したものは懐かしくもある中心と周縁の理論に飲み込まれて曖昧なものになってしまった。常に境界線は揺れ動き点線になり……。もう眠ろう。

明日はYとTとカレーを食べて大学に行く。Yが五限を潜るらしいのだが本当にするんだろうか。

大江健三郎『われらの時代』読了。近日中に何度も読み返すことになるだろう。後半にアンガージュマンについての示唆がある。また、英雄的な死についての示唆も。靖男は英雄的で滑稽ではない自殺が可能だと考えるが、それは果たして本当だろうか。英雄的な死とは滑稽なものではないか? 三島由紀夫の死は滑稽ではないか? 『性的人間』の《厳粛な綱渡り》という詩を書こうとしていた少年の死は滑稽ではないか?

寮の小説を書き始めた。が、気に入らない。文体の密度が圧倒的に足りない。あまりにあっさりと進みすぎている。楽に呼吸ができてしまう。全然だめだ。もう軽い文体で進めるべきなのかもしれないが、だとすれば重すぎる。中途半端だ。
つい先日読んだ後輩の小説の引力から抜け出せないままでいる。その小説を読んだとき、冒頭部で吐きそうになった。ずっとあの調子で進められたら恐らく吐いていたと思う。あの窒息するような文体をどこで手に入れたのだろうか。俺は怖い。笑顔で何度も絵の具の沼に窒息させられる夢を見た。怖い。恐ろしい。今もその感覚を思い出して果てしなく疲労している。俺にはあまりに遠すぎる文体だ。密室で嬲られているような気分だ。俺もあれが欲しい。だがいくら推敲してもあそこまでは届かない。やってられない。俺は怖い。

日が空いた。飽きっぽいのはよくない。

大江健三郎『われらの時代』を読み進めつつある。やはり『われらの時代』から始まり『性的人間』で一応は終わるこの時期(しかしこの時期に語られている問題は三島由紀夫事件をきっかけに再燃するのだが)の大江の意識として、日本は父=天皇を失った牝の国家、アメリカ=牡という図式があるように思う。あまりに図式的になり過ぎることは問題かもしれないが。アメリカとの関係を描いたこの時期以前の小説も参照しなければならないだろう(『人間の羊』『不意の唖』など)。さらにそれが天皇制の問題へと深化してゆくのは三島由紀夫事件ののちに書かれた『みずから我が涙をぬぐいたまう日』である。が、それ以前に、『万延元年のフットボール』をもう一度精読すべきだろう。鷹四が一揆の指導者であった彼の祖父に自らを投影していくこと。三島由紀夫仮面の告白』において自らの産まれたときの盥の中の揺籃の記憶を描き出したこと。いや、それだけではない。自らを聖セバスチャンになりたいと強く思ったこと。このことはきっと本質的だ。ナルシズムの問題。

話は変わるが、子を産むという行為はアンガージュマンだろうか?

六月は演習準備もあり引越し準備もありで時間を有効に使わなければならない。戒めとして。

今日は何も読んでいない。反省。
以下はメモとしてここに記しておく。

①これ以降、寮の小説(タイトルを早く決めなければならない)において、テクスト自体を一次テクスト、テクスト内テクストを二次テクストと呼ぶ。つまり、寮の小説=一次テクスト、寮則=二次テクストということだ。一次テクストの中で二次テクストが書き換えられるとき、一次テクストにそれはどのようにフィードバックされうるか?

②寮の小説とは別に、新たな創作のためのメモ。同性愛者、女王様と奴隷、老人ホームでの愛、人口抑制のために生殖が制限された近未来の果て、流産したカップル、他人の子を育てる夫婦、もと孤児の男、兄と妹。つまり「パートナー」という概念。これらは新たな共同体を生成しうるか? 大江健三郎古井由吉を読み込むことを必要とする。長い旅になるだろう。しかしきっと愛は不滅だ。愛を愛的に受け入れ、そこからスタートすること(重要なことだが根拠率には根拠がない。そのことと同じだ)。かつて書いた『日の陰り』『巡りあい』をさらに発展させていくこと。ここにきて、『鎮魂』(特に初稿)『スリー』でかつて自分が問題とした性と政の問題が、愛と連結される。はずだ。今までは自分の中で区別していた二つの系統が、やっと繋がる。

どうでもいいが、ここで大学二年生以降にこの一連の小説を書いてきたことの要因を考えてみる。
一つ。東京に出てから一年が経ち、落ち着いたこと。ある程度東京での生活に慣れ、東京と地方(特に岐阜なわけだが)という二つの場所を相対的に語りうる地点に初めて立つことができたこと。
二つ。二十歳を過ぎ、社会的な意味においても心理的な意味においても大人になった(なってしまった)こと。親離れ子離れができるようになったこと。この前の母の言葉を二度と忘れないだろう。「もう二十歳を過ぎたのだから全てお前の好きにしなさい」。

結局のところ、故郷からは逃げられないのかもしれない。大学二年生以降書いてきた小説においてそれは顕著だ。だが、こうだ。
「ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから」(坂口安吾堕落論』)。

Yから借りた漫画を読んで今日はもう眠ろう。
明日は合評会に向けてサークル員の小説を読んでコメペを書く。

佐々木中『夜戦と永遠』第一部読了。70p近辺は再読の必要あり。根本的に精神分析の知識が欠けていることを痛感した。シニフィアンとは鏡である、という認識は正しいのか、もう一度考えなければならない。恐らく発表は象徴界についての話だけに留まることになるだろう。軽く用語を引用し使用するレベルで。
大江健三郎『われらの時代』を購入。『夜戦と永遠』の上巻を読み終わったら読む。