nakayubi

書くための座標

吉本隆明「母制論」「対幻想論」(『共同幻想論』)を再読した。よく考えれば演習発表にたいして必要ないので一旦区切ることにする。

日夏耿之介日夏耿之介詩集』がAmazonから届いた。ゴシック・ロマーン体と自ら称した文体は荘厳華麗奢侈であり、すらすらと読むことが難しい。難読な旧字体は呪術の文様のようにも見えさえする。ゆっくり読む。ゆっくり読むことは良いことだと思う。

話は少し逸れるが、浪漫主義と民族という共同体の生成について。例えば、浪漫主義は民話や叙事詩、神話に範をとった。そしてそれはそれを理解できる集団という共同体を逆に投射することとなった。日本においては古典主義とは漢詩文のリバイバルについてのみ扱われるべきであり、逆に言えば平安の王朝文学などを模倣したものは全て浪漫主義である。ここはしっかりと区分されるべきだろう。仏教説話などに範を求めたものについては古典主義の範疇に入れてもいいかもしれない。古代と中世の区分は難しいが、この点については常に頭の隅に置いておかなければならない。民話を童話に改編するプロセスと近代国家成立のプロセス(中央集権化)は似ている。眠いし大した論拠もないから適当に書いてしまった。ただ、例えばだが短歌において新古典派という呼称が通っていることは厳密に考えればズレが生じていないか、と思う。どこまでを「古典」か、と考えると難しいのだが、西欧の古典とはギリシャ・ローマであることを鑑みれば、日本における厳密な古典とは漢詩文であろう。そのような意味で「古典」とは文明が産み出したものであると言えよう。その古典を乗り越えるかのように国風文化が花開いていったのだ。しかしここで、まだ近代における「民族」など存在しないことは重要であるというか当たり前のことだ。浪漫主義が近代国家の成立に寄与したことは常識であるが、その理論でいくと、古典主義はヨーロッパという概念を遡行的に成立させた。
少し論理が飛躍するが、上のような文脈において、俺は美しいものを美しく書こうとする行為が直感的に危険だと感じる。川端康成谷崎潤一郎、そして三島由紀夫などの文体が(もちろん彼らの構成の美を見逃すことが決してできないことは承知である)。この直感をどうにかして論理立てたいと考えていたが虚しい試みだった。上に記したものは懐かしくもある中心と周縁の理論に飲み込まれて曖昧なものになってしまった。常に境界線は揺れ動き点線になり……。もう眠ろう。

明日はYとTとカレーを食べて大学に行く。Yが五限を潜るらしいのだが本当にするんだろうか。