nakayubi

書くための座標

日が空いた。飽きっぽいのはよくない。

大江健三郎『われらの時代』を読み進めつつある。やはり『われらの時代』から始まり『性的人間』で一応は終わるこの時期(しかしこの時期に語られている問題は三島由紀夫事件をきっかけに再燃するのだが)の大江の意識として、日本は父=天皇を失った牝の国家、アメリカ=牡という図式があるように思う。あまりに図式的になり過ぎることは問題かもしれないが。アメリカとの関係を描いたこの時期以前の小説も参照しなければならないだろう(『人間の羊』『不意の唖』など)。さらにそれが天皇制の問題へと深化してゆくのは三島由紀夫事件ののちに書かれた『みずから我が涙をぬぐいたまう日』である。が、それ以前に、『万延元年のフットボール』をもう一度精読すべきだろう。鷹四が一揆の指導者であった彼の祖父に自らを投影していくこと。三島由紀夫仮面の告白』において自らの産まれたときの盥の中の揺籃の記憶を描き出したこと。いや、それだけではない。自らを聖セバスチャンになりたいと強く思ったこと。このことはきっと本質的だ。ナルシズムの問題。

話は変わるが、子を産むという行為はアンガージュマンだろうか?

六月は演習準備もあり引越し準備もありで時間を有効に使わなければならない。戒めとして。