nakayubi

書くための座標

今日は何も読んでいない。反省。
以下はメモとしてここに記しておく。

①これ以降、寮の小説(タイトルを早く決めなければならない)において、テクスト自体を一次テクスト、テクスト内テクストを二次テクストと呼ぶ。つまり、寮の小説=一次テクスト、寮則=二次テクストということだ。一次テクストの中で二次テクストが書き換えられるとき、一次テクストにそれはどのようにフィードバックされうるか?

②寮の小説とは別に、新たな創作のためのメモ。同性愛者、女王様と奴隷、老人ホームでの愛、人口抑制のために生殖が制限された近未来の果て、流産したカップル、他人の子を育てる夫婦、もと孤児の男、兄と妹。つまり「パートナー」という概念。これらは新たな共同体を生成しうるか? 大江健三郎古井由吉を読み込むことを必要とする。長い旅になるだろう。しかしきっと愛は不滅だ。愛を愛的に受け入れ、そこからスタートすること(重要なことだが根拠率には根拠がない。そのことと同じだ)。かつて書いた『日の陰り』『巡りあい』をさらに発展させていくこと。ここにきて、『鎮魂』(特に初稿)『スリー』でかつて自分が問題とした性と政の問題が、愛と連結される。はずだ。今までは自分の中で区別していた二つの系統が、やっと繋がる。

どうでもいいが、ここで大学二年生以降にこの一連の小説を書いてきたことの要因を考えてみる。
一つ。東京に出てから一年が経ち、落ち着いたこと。ある程度東京での生活に慣れ、東京と地方(特に岐阜なわけだが)という二つの場所を相対的に語りうる地点に初めて立つことができたこと。
二つ。二十歳を過ぎ、社会的な意味においても心理的な意味においても大人になった(なってしまった)こと。親離れ子離れができるようになったこと。この前の母の言葉を二度と忘れないだろう。「もう二十歳を過ぎたのだから全てお前の好きにしなさい」。

結局のところ、故郷からは逃げられないのかもしれない。大学二年生以降書いてきた小説においてそれは顕著だ。だが、こうだ。
「ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから」(坂口安吾堕落論』)。

Yから借りた漫画を読んで今日はもう眠ろう。
明日は合評会に向けてサークル員の小説を読んでコメペを書く。