nakayubi

書くための座標

家庭を持つことはアンガージュマンだ。家族とは性的な空間であると同時に政治的な空間である。大江健三郎『個人的な体験』において、鳥(バード)は障碍児の「父」を引き受けることによって鳥(バード)はアンガージュマンしている。だが、それはかつての父ではない。かつての家長としての父(勃起したように膨れ上がった父)は天皇制のミニチュアである。『個人的な体験』における「父」は家長としての父を明確に拒否する新たな父であるはずだ。それは鳥のように痩せ細り、無惨でみっともない姿をした父だ。そのような文脈において、大江健三郎は初めて『個人的な体験』においてアンガージュマンを果たしたと言える。そこに描かれた主人公=鳥(バード)は逃走しない。『個人的な体験』までに描かれてきたような、子を恐れ(それは言ってしまえば、父になることを恐れているということと同質だ)、勃起不全な、もしくは男色に耽る主人公たちとは違って、鳥(バード)は自らの運命を受け入れる。アフリカ行きを、幼児殺しを、明確に拒否する。『万延元年のフットボール』においては、さらにそれが先鋭化し、障碍児を受け入れるだけでなく、弟という他人の子を受け入れる。蜜三郎の新たな家族は文字通り新しい家族であり、それは容易に天皇制に回収されるものではない。