nakayubi

書くための座標

路地、ストリートが語り出すとき

ひとつの歴史とは、それは無数の歴史を捨象していった結果に過ぎない。万世一系の天皇制の歴史とはすなわち皇位につけなかったものたちの歴史に他ならない。中上健次はそれを路地に見出した。中上の紀州サーガとは、それはともすると南朝系譜にあるのかもしれない。歴史に捨象された個々の歴史を丁寧に掬い上げていく作業は、権力によって忘却させられたものの歴史を語ることだ(島田雅彦『無限カノン三部作』)。
しかし路地(ストリート)は語り出す。そこにたむろする、いわゆる被圧制者たちは路地(ストリート)の言葉を用いてラップする。短歌とは結局のところ、天皇への言語ではないか? それだけではない。小説も、詩も、なにもかも、結局は権力の言葉に過ぎない。革命のメンタリティで最もキツいことは、革命という語がブルジョアのものだということだ。真に革命の主体たる被圧制者たち、プロレタリア的なものたちは、自らを語る言葉を持たない。彼らは権力によって巧妙に生かされている。
だが違った。路地(ストリート)は自らの言葉で語り出すことができた。それは忘れられていた押韻という形をとって。彼らは自分が語り得る言葉を探し、ラップする。それは権力の言葉ではない。確かに容易に権力の言葉へと反転してしまう可能性は大いにある。だが「反権力という権力」ではない言葉があるとすれば、それは「運動の言葉」だろう。希望的観測かもしれないが、きっとラップは「運動の言葉」だ。

大江健三郎『空の怪物アグイー』について。
ここでは特に「不満足」「空の怪物アグイー」について記す。目下重要なのはこの二作品であるから。まず「不満足」だが、この小説はのちに『個人的な体験』に繋がっていく。ここでは、少年から青年への過渡期が描かれていると同時に、ひとつの重要なモチーフが登場する。それは鳥(バード)と菊比古と僕が探し求める精神病患者であり痴漢であり、そして川に飛び込んで幼女を助ける乞食風の男だ。このモチーフ、つまりは痴漢=ヒーローは「性的人間」にも引き継がれる。大江本人も言うように、この「不満足」を仲立ちにすることによって「性的人間」「セヴンティーン」を考えなければならない。次に「空の怪物アグイー」だが、ここでも同じようにDは英雄のように自殺する。それは殺してしまった自らの子の幻影を守るようにして。大江において、われらの時代=現代では、コミットメントとは自殺もしくは性的倒錯しかありえないかったと考えるのが良いかもしれない。しかし、それが『個人的な体験』以降、「父になること」によって果たされるようになる。それまでの大江の小説の主人公たちはみな父になることに恐怖を抱く。しかしそれは、アグイーの幻影のように「甘ったれている」。父の死んだ世界、そして同時に素朴に父になることを禁じられた戦後、その時代に父を引き受けることこそがコミットメントだ。たとえそれが、他人の目からは青年から父への素朴な成熟と見られたとしても。

ここ二ヶ月ほど大江しか読んでいないからどの小説(もしくは評論)だったかは覚えていないのだが、「受難」が取り沙汰されることがある。それをキリストのイメージのみで捉えるのではなく、例えば殉教者=英雄=ヒーローと捉えることが重要だろう。青年のヒロイズムの問題。そしてこの一点において、三島が接近してきてしまうことの問題。

8.18

純粋天皇の胎水しぶく暗黒星雲を下降する
永久運動体が憂い顔のセヴンティーンを捕獲した八時十八分
隣りの独房では幼女強制猥せつで練鑑にきた若者がかすかに
オルガスムスの呻きを聞いて涙ぐんだという、ああ、なんていい……
愛しい愛しいセヴンティーン
縊死体をひきずりおろした中年男は精液の匂いをかいだという……

8.18の持ちうる意味を恣意的に読解するならば、

①1945年8月18日 内務省が地方長官に占領軍向けの性的慰安施設の設置を指令→日本の牝化(去勢)の象徴。

②8と10と8を組み合わせると米。米=アメリカ。

が今のところ挙げられる。
やはり強引かな。

寮の小説がかなり詰まっている。いっそのこと、大長編にしようと思う。二十万字くらいの。出てくるキャラクターが多すぎて書き分けが難しいので、エンタメ的手法を用いて予め設定を詰めておかなければならない。後輩Rのアフリカ行き、ロボットの入寮などもエピソードの追加に用いることにした。よもや冗談で言っていたロボット入寮がこんなところでネタになるとは思わなかった。三人称では殊の外詰まってしまうし、戯曲風の始まり(そこそこ気に入っているのだが)が浮いてしまうので、一人称で書こうと思う。しかしRのアフリカ行きを追加することはあまりに大江的だと批判される恐れもある。要注意だ。二十代が終わるまでに書ければいい。あと十年ある。

家庭を持つことはアンガージュマンだ。家族とは性的な空間であると同時に政治的な空間である。大江健三郎『個人的な体験』において、鳥(バード)は障碍児の「父」を引き受けることによって鳥(バード)はアンガージュマンしている。だが、それはかつての父ではない。かつての家長としての父(勃起したように膨れ上がった父)は天皇制のミニチュアである。『個人的な体験』における「父」は家長としての父を明確に拒否する新たな父であるはずだ。それは鳥のように痩せ細り、無惨でみっともない姿をした父だ。そのような文脈において、大江健三郎は初めて『個人的な体験』においてアンガージュマンを果たしたと言える。そこに描かれた主人公=鳥(バード)は逃走しない。『個人的な体験』までに描かれてきたような、子を恐れ(それは言ってしまえば、父になることを恐れているということと同質だ)、勃起不全な、もしくは男色に耽る主人公たちとは違って、鳥(バード)は自らの運命を受け入れる。アフリカ行きを、幼児殺しを、明確に拒否する。『万延元年のフットボール』においては、さらにそれが先鋭化し、障碍児を受け入れるだけでなく、弟という他人の子を受け入れる。蜜三郎の新たな家族は文字通り新しい家族であり、それは容易に天皇制に回収されるものではない。

大江健三郎『個人的な体験』読了。
この小説において、凡庸な言い方になってしまうが、大江健三郎はひとつの転換をとげている。『性的人間』に代表される作品群で示され現代を「どのように生きていくか」。それが具体的に障碍児として産まれてきた息子との同棲という形でラディカルに提示されている。つまり、家族をもつこと=アンガージュマンというわけだ。それは菊比古とのくだりで鳥(バード)が息子を殺さないことを決断することからも明らかだ。一見すると、この小説において「政治」は背景に後退しているかのようにも思われる。が、家族とは性的なものであると同時に政治的なものでもあるし、妻が障碍児として産まれてきた息子に「菊」比古と名付けようとしていたことからも、決して政治的問題が軽んじられているわけではない。そして、そのような「性」と「政」のわれらの時代をどのように「生」きるか。そのひとつの答えがこの小説に提示されている。それはかつてのように、楽観的な家庭ではありえない。数多くの困難に彼らは立ち向かい、それを乗り越えていかなければならないだろう。それでもわれわれは、現代にコミットして生きていかなければならない。

昨日はEさんが退寮して実元の家業を継ぐとのことだったのでパーティーをした。Eさんにはとてもお世話になったので友人たちと金を出し合ってワインを買ってプレゼントした。二年と少しの間、いつもどこかで顔を合わせていた人がいなくなるのは身を引き裂かれるかのように痛みを伴う(共同体のひとつの特性は、共同体の自己身体化なのだから)。

単一性共同体において、それはいとも簡単に戦争に横滑りしうる、ということに読書会を通じて気づいた。軍隊は男性のみが所属する共同体であるし、戦争で男性がいなくなることによって女性のみの共同体が成立する。ずっと寮の人間関係は軍隊に模すことができると思っていたが、それは当たっていたはずだ。

学生運動においては単一性の共同体ではなかったとすれば、寮の小説(未だタイトルが未決定)において、学生運動を取り扱うことについては注意が必要だろう。女子寮でも登場させようか。

中性や両性という考えは、男女という既成の二項対立を打ち壊すものではまったくない。「中」や「両」と言っている時点でその両端である「男」「女」を回避することができていない。ならば無性はどうか。「無」という語を用いることにより、「男」「女」は「有」にまとめられ、新たな「有」「無」の二項対立に発展する。無性にAセク/ノンセクを当て嵌めることについては留意が必要である。寧ろ、無性とは子を持たない選択(さらに言ってしまえば、父にならないという選択)という意味を俺は付与したい。このことについてはまた考え続けなければならないだろう。まだ全くまとまっていない。ただ、将来的に男×男や女×女のカップルでも生殖が可能になり、さらには人口抑制のために非生殖が積極的な意味を持つようになるかもしれない、と考えると、この「有」「無」の二項対立はより鮮明になっていくのかもしれない。

「人間にできる最も意識的な行為として、自殺すること、子供をつくらないことの二つがある」(埴谷雄高『無限の相のもとに』)