nakayubi

書くための座標

昨日はEさんが退寮して実元の家業を継ぐとのことだったのでパーティーをした。Eさんにはとてもお世話になったので友人たちと金を出し合ってワインを買ってプレゼントした。二年と少しの間、いつもどこかで顔を合わせていた人がいなくなるのは身を引き裂かれるかのように痛みを伴う(共同体のひとつの特性は、共同体の自己身体化なのだから)。

単一性共同体において、それはいとも簡単に戦争に横滑りしうる、ということに読書会を通じて気づいた。軍隊は男性のみが所属する共同体であるし、戦争で男性がいなくなることによって女性のみの共同体が成立する。ずっと寮の人間関係は軍隊に模すことができると思っていたが、それは当たっていたはずだ。

学生運動においては単一性の共同体ではなかったとすれば、寮の小説(未だタイトルが未決定)において、学生運動を取り扱うことについては注意が必要だろう。女子寮でも登場させようか。

中性や両性という考えは、男女という既成の二項対立を打ち壊すものではまったくない。「中」や「両」と言っている時点でその両端である「男」「女」を回避することができていない。ならば無性はどうか。「無」という語を用いることにより、「男」「女」は「有」にまとめられ、新たな「有」「無」の二項対立に発展する。無性にAセク/ノンセクを当て嵌めることについては留意が必要である。寧ろ、無性とは子を持たない選択(さらに言ってしまえば、父にならないという選択)という意味を俺は付与したい。このことについてはまた考え続けなければならないだろう。まだ全くまとまっていない。ただ、将来的に男×男や女×女のカップルでも生殖が可能になり、さらには人口抑制のために非生殖が積極的な意味を持つようになるかもしれない、と考えると、この「有」「無」の二項対立はより鮮明になっていくのかもしれない。

「人間にできる最も意識的な行為として、自殺すること、子供をつくらないことの二つがある」(埴谷雄高『無限の相のもとに』)