nakayubi

書くための座標

路地、ストリートが語り出すとき

ひとつの歴史とは、それは無数の歴史を捨象していった結果に過ぎない。万世一系の天皇制の歴史とはすなわち皇位につけなかったものたちの歴史に他ならない。中上健次はそれを路地に見出した。中上の紀州サーガとは、それはともすると南朝系譜にあるのかもしれない。歴史に捨象された個々の歴史を丁寧に掬い上げていく作業は、権力によって忘却させられたものの歴史を語ることだ(島田雅彦『無限カノン三部作』)。
しかし路地(ストリート)は語り出す。そこにたむろする、いわゆる被圧制者たちは路地(ストリート)の言葉を用いてラップする。短歌とは結局のところ、天皇への言語ではないか? それだけではない。小説も、詩も、なにもかも、結局は権力の言葉に過ぎない。革命のメンタリティで最もキツいことは、革命という語がブルジョアのものだということだ。真に革命の主体たる被圧制者たち、プロレタリア的なものたちは、自らを語る言葉を持たない。彼らは権力によって巧妙に生かされている。
だが違った。路地(ストリート)は自らの言葉で語り出すことができた。それは忘れられていた押韻という形をとって。彼らは自分が語り得る言葉を探し、ラップする。それは権力の言葉ではない。確かに容易に権力の言葉へと反転してしまう可能性は大いにある。だが「反権力という権力」ではない言葉があるとすれば、それは「運動の言葉」だろう。希望的観測かもしれないが、きっとラップは「運動の言葉」だ。