nakayubi

書くための座標

大江健三郎『空の怪物アグイー』について。
ここでは特に「不満足」「空の怪物アグイー」について記す。目下重要なのはこの二作品であるから。まず「不満足」だが、この小説はのちに『個人的な体験』に繋がっていく。ここでは、少年から青年への過渡期が描かれていると同時に、ひとつの重要なモチーフが登場する。それは鳥(バード)と菊比古と僕が探し求める精神病患者であり痴漢であり、そして川に飛び込んで幼女を助ける乞食風の男だ。このモチーフ、つまりは痴漢=ヒーローは「性的人間」にも引き継がれる。大江本人も言うように、この「不満足」を仲立ちにすることによって「性的人間」「セヴンティーン」を考えなければならない。次に「空の怪物アグイー」だが、ここでも同じようにDは英雄のように自殺する。それは殺してしまった自らの子の幻影を守るようにして。大江において、われらの時代=現代では、コミットメントとは自殺もしくは性的倒錯しかありえないかったと考えるのが良いかもしれない。しかし、それが『個人的な体験』以降、「父になること」によって果たされるようになる。それまでの大江の小説の主人公たちはみな父になることに恐怖を抱く。しかしそれは、アグイーの幻影のように「甘ったれている」。父の死んだ世界、そして同時に素朴に父になることを禁じられた戦後、その時代に父を引き受けることこそがコミットメントだ。たとえそれが、他人の目からは青年から父への素朴な成熟と見られたとしても。

ここ二ヶ月ほど大江しか読んでいないからどの小説(もしくは評論)だったかは覚えていないのだが、「受難」が取り沙汰されることがある。それをキリストのイメージのみで捉えるのではなく、例えば殉教者=英雄=ヒーローと捉えることが重要だろう。青年のヒロイズムの問題。そしてこの一点において、三島が接近してきてしまうことの問題。